what I felt
what I thought
what I learned
what I want to tell you
コンプガチャ規制の話しが出て世の中的にソーシャルゲーム=悪という気運が高まる今日この頃。自分も本職ではソーシャルゲーム作りに勤しむ身であり、実際にソーシャルゲーム被害者の会に入ってもおかしくないくらいの額のコンプガチャを引いた身(SR杏2回コンプしたよ!)として、これを気にソーシャルゲームって社会的悪なの?死ぬの?を 8bit の脳を駆使して考えてみたよ。(なんだか書き終えてみると予想外のボリュームと壮大さになってしまって、正直自分でもどうしてこうなった\(^o^)/状態である・・・)
そしてこのエントリーを書いてる最中にも業界全体で自粛の動きになったりと慌ただしく情勢が変化していますが、あくまで自分の中で考えを整理してみたいというのがこのエントリーの意図です。だってそんな偉そうなことを言えた立場じゃないしね!
※まとまった文章を書き慣れていないので、途中おかしなこと書いてたり論理が飛躍してたり構成がまずかったりいろいろあるかと思いますが、生ぬるい目線で見守っていただけると生まれたての子鹿のように喜びます。
以下では、まず最初に娯楽って人類に必要かについて考えてみて、家庭用ゲームの善と悪に対比する形でソーシャルゲームの善と悪について考えてみたいと思います。
目次
まずソーシャルゲームの善と悪を考える前に、そもそも「娯楽」って人類に必要なの?ってのを考えてみよう。
「娯楽」とは、三省堂の大辞林によると、
心を慰め、楽しむこと。また、そのような物事。笑い、喜ぶような楽しみ。
とある。心を慰める、つまり肉体ではなく精神の健康を維持するための活動のように見て取れる。さらにインターネッツで娯楽について調べてみると、戸坂潤という人の「娯楽論」という文献に出くわした。
戸坂潤「娯楽論」
「暇つぶしや退屈凌ぎは、まだ何等娯楽にはならぬ。娯楽には生活感の促進を催す処の、あの文化一般の素の味である処の、積極的な熱情があり、文化一般の健康 感を結果する処の、あの建築的で蓄積的な生産的能力が備わっている。たといその文化的な身上があまり高くないにしてもだ。単に無間地獄に落ちないだけのた めの、暇つぶしや退屈凌ぎと根本的に異る所以だ。」
「慰安と休息とは、暇つぶしや退屈凌ぎに較べて、遙かに或る社会的な本質を持っている。後に見るように、もし娯楽が或る社会的な本質を有つものだとすれば、 少なくともこの方が娯楽により近いことは想像していいだろう。それだけではなく、何と云っても慰安や休息は、その後の労働に生気を与える原因になるわけだ から、それだけ養生的な意義を持つわけで、この点でも暇つぶしや退屈凌ぎのただの消極的で弁解的な本性とは異っているのだ。だがそ れでもなお、慰安や休息はそれ自身に積極的な建設力があるのではない。あくまで労働に対立する慰安であり休息であることが、所謂慰安であり休息である所以 だからである。――娯楽が慰安や休息として利用されることは勿論甚だ多い。だがそれ自身が娯楽なのではない。」
「では娯楽そのものは何か。大体之を二つの特徴から整理して行くことが出来ると思う。第一は或る社会性であり、第二は或る積極性と云っていい。娯楽の有つ社会性の特色は、それが多くの場合、個人の単独な享受ではなくて必ず相手又は同志があるということに現われる。」
戸坂氏は、娯楽とは単なる暇つぶし・退屈しのぎ・休息・慰安ではなく、社会性・積極性の追求であると述べている。つまり娯楽あるところに他者との関わりあいがあり、社交行為を通じて社会性・積極性を磨く行為、あるいはそれをうながす社会的制度が、娯楽であると言っている。はいでてきましたキーワード「社会」「社会性」。つまり「ソーシャル」。このソーシャルという言葉に、娯楽の必要性を解く鍵がありそうな気がしてきた。
次に、ソーシャル・社会性といったキーワードを考えるにあたって知っておきたいのが、アブラハム・マズローの自己実現理論。
アブラハム・マズロー 「自己実現理論(欲求階層説)」
マズローは、人間の基本的欲求を低次から
1. 生理的欲求(physiological need)
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。このことから「階層説」とも呼ばれる。また、「生理的欲求」から「承認の欲求」までの4階層に動機付けられた欲求を「欠乏欲求」(deficiency needs)とする。生理的欲求を除き、これらの欲求が満たされないとき、人は不安や緊張を感じる。「自己実現の欲求」に動機付けられた欲求を「成長欲求」としている。人間は満たされない欲求があると、それを充足しようと行動(欲求満足化行動)するとした。その上で、欲求には優先度があり、低次の欲求が充足されると、より高次の欲求へと段階的に移行するものとした。
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ここで注目したいのが、下の階層から上の階層に進むにつれて、欲求の主体が「肉体」から「精神」へと変化していく点。生理的な欲求や安全の欲求は肉体を守るための欲求であるのに対し、所属と愛の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求は精神世界を健全に保ち、自己のアイデンティティを確認するための欲求になっている。他者との関わりあいの中で自分の居場所・存在価値を認識して、自分というものを保つにあたり、この高次の欲求をいかに満たすかが重要になってくる。この高次の欲求こそが社会的欲求であり、人類特有の欲求なのだ。
おわかりいただけただろうか。つまりこの高次の社会的欲求を満たす1つの大きな要素となるものが「娯楽」だったのだ。高度に社会性をもつ人類が、人類社会で健康的に生きてくためには、娯楽による精神生活の活性化、娯楽による休息や癒し、娯楽を介して生まれるコミュニケーション、そして何よりも「楽しい」と感じることが大事なのだ。娯楽は、人類が社会性を保ち、高度に文明を発達させるうえで必要なものなのである。人間が人間たる所以を社会性に求めるならば、娯楽は社会性を保持するために必要であり、人間が人間らしくあるために必要だったのである。そうだよね、不必要ならこんなに娯楽産業が発達するわけないよね。
では、娯楽が人類に必要だとしたうえで、娯楽を代表するものとして家庭用ゲームをとりあげ、その社会的影響について考えてみよう。家庭用ゲームがたどってきた歴史を振り返ってみると、娯楽が人類に必要だとしても、手放しに「娯楽 = 善」とするのはどうやら正しくないように思える。以下ではまず家庭用ゲームが社会に与えた悪影響(といわれているもの)、家庭用ゲームの社会的悪について考えてみる。
家庭用ゲームが社会的悪と言われる代表的な例は、暴力的表現・性的表現の青少年に対する影響だろう。これについては日本だけではなく欧米でも議論になったことは目新しい。アメリカでは銃乱射事件が起こるたびに、暴力的なゲームとの関連性が取りざたされ、日本においても無差別殺人事件などが起こると、残虐ゲームの影響の議論が始まることは珍しくない。実際のところ、これら暴力的で残虐なあるいは性的表現のあるゲームが青少年の心理にどういった影響を与えるのかについては、現時点では明確な答えを得ていないのが実情のようだ。そのため、悪影響を与えるだろう、とか、悪影響を与えるはずだ、のように想像論で議論されがちだ。たしかに、暴力的なシーンに少年期に慣れ親しんだ子供が暴力的な大人になる、という文章は一見するとそうなりそうな気配を感じさせる部分はある。
アメリカでは、暴力的なビデオゲームや映画に触れた人は人の痛みに鈍感になるとする研究論文が発表されたりもしている。しかし2005年にカリフォルニア州で暴力ゲーム販売規制法案が提出されたことに端を発する裁判では、2011年に判決が下され、暴力ゲームの規制は言論・表現の自由を侵害するものであり、この研究論文の科学的根拠・因果関係が認められないという司法判断がなされている。
つまり、こうした家庭用ゲームが青少年の健全な成長に与える影響に関しては、科学的根拠の実証が難しく、現状は悪影響を与えそうだという予測のもとに、世論を鑑みながら適切な判断をしていかざるを得ないのだ。そこで家庭用ゲーム業界は CERO という業界共通のレーティングの仕組みを導入し、ゲーム内容とプレイする人のマッチングが適切になされるよう工夫をほどこしたり、ハードウェアにペアレンタルコントロール機能を搭載して、子供のゲームプレイを親の管理下に置く仕組みを提供した。
次に家庭用ゲームの社会的善について考えてみよう。社会的善を考えるにあたり、売れたゲームはきっと社会的に善な何かを持ってたから売れたんだろうという仮説のもとに、ここ数年のミリオンヒット規模の作品を見てみることにする。

勘の良い人はもう気づいたかもしれないけれど、ここ数年でヒットした家庭用ゲームってどれも「他のプレイヤーとわいわい楽しむ系」のゲーム、つまり社会性の高いゲームだったのでした。自分の身の周りでも、DSを持ち寄ってみんなでぎゃーぎゃー言いながらマリオカートしてる同僚や、Twitter で仲間募集して一緒にモンハンの狩りにでかける人たちなど、家庭用ゲームを軸にしてリアルな人と人とのつながりがいたるところで生まれているのを何度も目の当たりにしています。
インターネットが普及してブロードバンド化が進みゲーム以外の娯楽の選択肢が増えることで相対的に人がゲームに割ける時間が減っている中で、数十時間単位のまとまった時間が必要で、1人でどっぷりと世界観を楽しむ系のRPGよりも、1回あたりのプレイ時間が短く、みんなでわいわい気軽に遊べるゲームがより受け入れられるのはある意味必然なのだろう。据え置き機よりも携帯機のタイトルが多いのも、家でどかっと腰を据えてやるよりかは、通勤時間や休み時間などの隙間時間に気軽にプレイできるというライフスタイル・プレイスタイルの変化を表しているように見える。
つまり娯楽のもつ社会性・積極性の追求という原則にマッチしたタイトルは、社会的に受け入れられる = ヒットするのだ。自分の経験に照らし合わせてみても、みんなでギャーギャー騒ぎながら、笑いながらプレイできるゲームはプレイしていて楽しいし、それをサカナに誰々の家に集まって遊ぼうとか、その輪の近辺にいる人達が自分もおもしろそうだから買おうっていう流れを何度も経験した。結果的に、交流が深まったり、新しい出会いがあったりしてリアルな社会生活が活性化し、意識的・無意識的に自身の精神状態がプラスの方向に向かっていたように思う。この効果こそが娯楽の効果なのだ。
またこうした直接的な社会性・積極性の向上以外にも、世界観にどっぷりつかることで精神をリフレッシュしたり、あるいはゲーム音楽に感動して心が洗われるといった経験も、間接的にその人の社会生活の向上に役立っているだろう。そしてそこから、世界観・キャラクター・ゲーム音楽などへの思い入れが発生し、おなじ嗜好をもつ人同士が出会い、新たな人間関係を構築していくといった効果もあるだろう。
このように、家庭用ゲームで売れているタイトルを見渡してみると、そこには娯楽の本質である社会性・積極性の追求への貢献に成功している要素があり、これはすなわち社会的善を実現していると言ってもよいのではないだろうか。
次にソーシャルゲームの社会的悪について考えてみる前に、「ソーシャルゲーム」といってもいろんな解釈があると思うので、ここでのソーシャルゲームの定義を書いてみたいと思います。ここでいうソーシャルゲームとは、
1. 基本プレイ無料
2. ユーザデータはクラウドにあり、サーバ時間軸でゲームが進行する
3. プレイヤー同士あるいはギルド同士を競わせる仕組みがある
という特徴を持ち、その上で、
4. 時短アイテムをお金で買える
5. ガチャをお金で引ける
6. ゲーム内トレードができる
のうちのいくつかの特徴をもっているゲーム、としたいと思います。PC・スマホ・フィーチャーフォンといったデバイスは特に気にせず、上記の条件を満たすものをここではひとまず「ソーシャルゲーム」としたいと思います。今 GREE・モバゲー(Yahoo!モバゲー)・AppStore などで話題になってるゲームはほぼこの条件を満たすんじゃないかと。
ではソーシャルゲームというものを定義したうえで、このソーシャルゲームが社会的悪だ、と言われている部分について考えてみましょう。
ソーシャルゲームが悪だと言わている点はいろいろあるけれど、おそらくその議論は表面的には、
あたりに収束するのではなかろうか。上であげたソーシャルゲームの特徴のうち主に5と6に関わる部分である。
『ソーシャルゲーム:高額請求が増加 未成年者の利用、制限する動き』
「今年1月、東京都消費生活総合センター(新宿区)に「中学1年の息子がスマートフォンから無断で有料のゲームを使い、約80万円の請求が来た」と相談が あった。電話を受けた相談員の福永さつきさんによると、少年がスマートフォンを使うため、父親がクレジットカードを登録。少年はそれを利用してゲームに参 加し、くじ引きのような仕組みでカードをそろえていく「ガチャ」と呼ばれるシステムにお金をつぎこんでいた。ゲーム内だけで通用する通貨をクレジットカー ドで買うのだが、現実のお金を使っている感覚がなかったという。」
「ゲーム内で使う通貨やアイテムを、利用者は「購入」するが、実際の売買とは異なる。ソーシャルゲーム各社は「アイテム購入は、サイト内で利用する権利を得 るだけ」などとして、ゲーム内通貨などを現金化することを利用規約で禁じている。だが、サイト外で現金化(RMT=リアル・マネー・トレード)されている ケースがある。ソーシャルゲームならではの遊び方として、利用者同士の交換やプレゼントの機能があることを悪用し、オークションサイトなどに「出品」し、 入金と引き換えに、サイト内で利用者同士で交換する方法が知られ、1枚数万円から、いくつかのアイテムをまとめて十数万円の値がつくケースもある。」
このガチャやRMTの問題を掘り下げていくと、ソーシャルゲームが社会的悪と見なされているものの本質は「ゲーム内での競争に勝つために、無制限かつ容易にリアルマネーを使える可能性がある」点ではないだろうか。そしてこれはアイテム課金というビジネスモデルの抱える本質的な性質でもある。家庭用ゲームのパッケージ売り切り型や、従来のオンラインゲームで一般的だった月額固定といったビジネスモデルと、基本無料アイテム課金とでは、この「無制限にお金をかけられてしまう」という点において決定的な違いがある。
この基本無料アイテム課金というビジネスモデルの優れた点は、
だと思う。
基本無料アイテム課金のオンラインゲームでは一般的に次の4つのパラメータが重視される。
この集客力・継続率・課金率・顧客単価を伸ばすことが、基本無料アイテム課金モデルをとった場合の至上命題になる。
まず最初にそのゲームを遊んでもらう人を集めないと話にならない。そのため様々な広告を打ったり、招待コードを配布したり、いろんな手法で集客をする。GREEやモバゲーなどのプラットフォームの存在意義の一つは、様々なゲームを一箇所に集めることでこの集客の相乗効果を狙うといったものにあるといえる。そしてこの集客という点において、基本無料であることはとても大きな強みになる。プレイするのにお金がかかってしまうという時点で、大半の潜在ユーザが脱落してしまうのだ。月額課金モデルや家庭用のパッケージ売り切りモデルの場合、まずこのプレイするための障壁が高く、どちらかというとゲーム内容よりも、いかに買ってもらうかに力点が置かれがちでもある。基本無料モデルはこの点でまず有利なのだ。
次に継続率。一度ゲームを初めてくれたお客さんを、いかにそのゲームにとどめるか、これも重要な課題である。そのため最初のチュートリアルが超重要で、チュートリアルを充実させてゲームシステムを最初に理解させ、序盤に良いカードをわざと出すなど成功体験をいくつか散りばめることで、「お、せっかくだからもうちょっとやってみようかな」と思わせる工夫をこらす。そして継続率を高める上でもう一つ重要なのが、お客さんがゲームのことが気になって仕方がない仕組みを用意することだ。お客さんも常にゲームをプレイするわけにはいかないので、ゲームから離れる時間がどうしてもできてしまう。オンラインゲームでは一度長期にそのゲームから離れてしまったお客さんは、2度と戻ってこない可能性が高い。なので、何らかの形で、定期的にゲームに戻ってこさせる仕組み、戻って来たくなる仕組みが必要なのである。多くのソーシャルゲームではこれを「資源溢れ」という仕組みで実現している。行動するためのエナジーが時間で回復していずれ満タンになる仕組みや、内政ゲームの施設建設あるいは施設建設のための資源産出の仕組みなどである。最近話題になったなめこ栽培は多くの人がプレイしたと思うので感覚がわかる人も多いはず。なめこはソーシャルゲームとは違うけど、その「気になってゲームに戻りたくなる」仕組みは、ソーシャルゲームのエッセンスなのだ。
そして課金率。これはそのゲームを遊んでいるアクティブなお客さんのうち、何割が課金しているかを表す数字だ。この数字が高ければ高いほど売上が多くなるのはわかるだろう。そしてこの課金率を高める部分こそ、ゲームデザイナーの腕の見せ所なのである。基本無料で遊べるゲームなのに、課金したくなる仕掛けをいかに作れるか、お客さんの動機をいかにうまくつつけるか、これが基本無料アイテム課金モデルのオンラインゲームのゲームデザインの肝であり、一番おもしろい部分でもある。ここばっかりは経験を積んでセンスを磨くしかない。
最後に顧客単価。これは ARPU や ARPPU ともいわれる。ARPU (Average Revenue per User) はゲームを遊ぶユーザ1人あたりの顧客単価、ARPPU (Average Revenue per Paid User) は課金しているユーザ1人あたりの顧客単価。日次・週次・月次などで ARPU・ARPPU は算出される。最近は ARPDAU (1日のアクティブなユーザ1人あたりの顧客単価) を見て対応を検討する会社が増えているみたい。課金してくれるユーザの単価が高いことも、売上を伸ばす要因になるのは明らかだ。そしてこの顧客単価の部分こそ、アイテム課金モデルと月額課金・パッケージ売り切りモデルとの明確な違いがあらわれる部分でもある。
以下の図でこの違いを確認しよう。

つまり、月額課金・パッケージ売り切りモデルの顧客単価は一定なのに対し、アイテム課金モデルは顧客の需要次第ではどこまでも上がってしまうのだ。もちろん非課金のユーザからは一銭もとれないことになるが、「お金を払う価値がある」と思ってくれた一部の課金者は、月額固定・パッケージ売り切りモデル以上の対価を支払うこともある。そしてこの一部の課金ユーザからの売上によってアイテム課金モデルのゲームの利益は生み出されているのだ。ごく一部の廃課金者になってくると1人で数百万、ひどいときには1000万以上のお金を1つのゲームに費やす例もある。
この「顧客単価上限の不在」こそが、「ソーシャルゲームは社会的悪」と見なされやすくしている根源だと自分は思う。欲求のおもむくままいくらでもお金を使うことのできる仕組みがあるかないかで、その社会的危険性は全然違う。パチンコやカジノなどのギャンブルと同じ仕組みが、アイテム課金モデルには存在するのだ。そしてさらにたちの悪いことに、ソーシャルゲームではお金を使うという行為が、あまりにも容易にできてしまうのだ。多くの場合はGREE・モバゲーの提供するプラットフォームの通貨や独自のゲーム内通貨に一旦リアルマネーを換金して使うことになるが、クレジットカードや携帯料金という支払い方法を挟むこともあって、ゲーム内でお金を使うという行為にリアリティがなく、気がついたら諭吉が何枚も空に飛んでいってた、なんてことがざらにある。
こうしたアイテム課金モデルのソーシャルゲームがもつ「顧客単価上限の不在」「課金行為のリアリティのなさ」に拍車をかけるのが今話題の「射幸性」である。射幸性とは簡単に言えば「ギャンブル性」で、ようするに偶然の当たりを願う気持ちである。ただでさえ射幸心を煽る仕組みといわれているガチャを、さらにパワーアップさせたのが現在絶賛自粛開始中のコンプガチャだ。コンプガチャの極悪なところは、最初の数枚は比較的確率が高く設定されており、最後の1枚になると確率が極端に低くなる点。これによって最初はポンポンとコンプ対象のカードが出るので、「お、こんなに簡単にでるんならひょっとして・・」「ここまで出たんだから最後まで頑張ってみるか・・」という気持ち(コンコルド錯誤というらしい)が引き起こされ、最後の1枚が全然でないにもかかわらず、ついついガチャを引いてしまうという状態に陥ってしまう。結果的に気がついたら何十人も諭吉が空に飛んでいってたなんてことになる。自分もその罠にはま(ry
理性ある大人ですらこうなのだから、いわんや子供達に与える悪影響おや、である。そりゃ規制されても仕方がない。まとめると、ソーシャルゲームが社会的悪と言われる所以は、基本無料アイテム課金モデルというビジネスモデルのもつ顧客単価上限の不在という性質と、換金済みの独自通貨によるリアリティのない課金行為、そしてそういった前提の上に成り立つ射幸心を必要以上に煽る仕組みにあったのだ。
『MobageとGREE、青少年ユーザーの課金上限額を制限へ』
現在ではGREE・DeNAともに18才未満の課金上限を定めたり、GREE・DeNA・NHN Japan・サイバーエージェント・ドワンゴ・ミクシィの6社による連絡協議会が業界を主導する形で、徐々にこれらの問題を業界全体で対応していこうとする動きがではじめている。
では最後に、これだけソーシャルゲームは悪という気運が高まっている今だからこそ、ソーシャルゲームが社会的善になるためにはどうすればよいか、について考えてみよう。
ここにきて今一度、娯楽というものについて考えてみたい。娯楽は人類が社会性を保つために必要ということだったけども、家庭用ゲームやソーシャルゲームの社会的影響の歴史を見ると、娯楽そのものにどっぷり使ってしまうような娯楽の在り方は、社会的に健全でないように見える。つまりこうだ。娯楽は人類に必要だけど、娯楽はあくまで人が社会性を保つための「手段」であって、娯楽そのものが「目的」になってはいけないのだ。娯楽にどっぷりつかって、娯楽に興じること自体に魅力を感じるようになってしまうと、たちまちのうちにそれが社会性を失う諸刃の剣になることを、我々は理解しないといけない。今ソーシャルゲーム業界が直面している問題は、娯楽のあり方、娯楽との接し方の問題なのだ。そしてこれはソーシャルゲーム業界のみならず、エンターテインメント業界全般の問題でもある。エンターテインメント業界はこのことを肝に銘じないといけない。エンターテインメント業界が創りだすものは、あくまで人々の社会生活を充足させる「助け」でなければならない。「充足」そのものであってはダメなのだ。本来娯楽とはそういうものなのだから。焦点をあてるべきなのは娯楽そのものではなく、人々なのだ。
つまり娯楽の大原則は「その娯楽が人々のリアルの社会生活を充実させる助けになっているならば、その娯楽は社会的に必要とされる」ということだ。逆もまた然り。その娯楽が社会的善か悪かは、この大原則に沿っているかどうかで判断できる。必要以上に射幸性を煽り一瞬で誰かの数万円を溶かしてしまうような仕組みは、人々の社会生活に役立つか。カードほしさにオークションで何万円も出してサーバ上のデジタルデータを取得する仕組みは、人々のリアルを充足させるか。
こう考えるとソーシャルゲームが社会的善になるために必要なことは自ずと答えが出てくる。人が人らしく生きるうえで、ソーシャルゲームがその潤滑剤となればよいのだ。ソーシャルゲームを遊ぶ人たちのリアルを充足させるシステムになればよいのだ。そのゲームをプレイする人たちがワクワクして笑顔になるような仕組み。家族や学校の友達や会社の同僚とそのゲームの話しで盛り上がり、そのゲームを通じて親交を深められる仕組み。プレイすることによって得られた社会的満足感を糧にその人がリアルをいきいきと生きていける仕組み。こうしたものを実現できたソーシャルゲームは、社会的善の第一歩を踏み出せるのじゃないだろうか。そのためには今ソーシャルゲームを作っている人達がパラダイムシフトをしなければいけない。今自分たちが当然と思っているゲームデザイン、ビジネスモデル、これらが長期的に社会的善を実現できるのか、プレイする人同士を競わせて無制限にお金を消費させる可能性のある仕組みが本当に社会的善なのか、これを機に深く考えないといけない時なのかもしれない。娯楽の大原則を常に自分たちに問いかけないといけない。社会的善は社会的に必要とされ、社会的悪は社会的に淘汰されるのだ。もはやソーシャルゲーム業界は黎明期ではない。今後このフィールドで戦うプレーヤーはその社会的意義を考えないといけない段階にきているのだと思う。ソーシャルゲーム業界は自らを振り返る間もなく急成長しすぎたのかもしれない。
最後に、娯楽というものの全体像を一歩引いて眺めてみると、1つの周期的な構造があるように思える。家庭用ゲーム業界のレーティング審査の導入、ソーシャルゲーム業界のコンプガチャ規制、あるいは音楽業界の風営法によるクラブ深夜営業の取り締まりなど、そこには「発展と規制の周期」があるように思える。娯楽というものは放っておくとその毒性を増し、本質的には放置しておくと社会に歪みを生むものなのかもしれない。人類が娯楽とうまく付き合う術は、この娯楽に付随する周期構造を理解し、うまくバランスを取っていくにつきるのではないだろか。エンターテインメント業界に属する人々は、自らの立ち位置や周りに与える影響を常に省みて、社会的に規制が必要になる前に行動を起こす勇気を身につけないといけないのではないだろか。
以上「ソーシャルゲームが社会的善になれるか」についての自分なりの考察でした。具体的な方法はまだ提示できてないけど、原則みたいなものは見えたんじゃなかろか・・。自分はただの頭にファミコン乗せた変態なので偉そうなこと言えた立場ではないのだけれど、ソーシャルゲーム業界・家庭用ゲーム業界・音楽業界といろんなエンターテインメント分野に公私問わず首を突っ込んでる身として思うところがあったので考えをまとめてみました。
乱文雑文失礼しますた!